忖度の亡霊

昨日、加藤智大死刑囚の刑が執行された。
思えば、ある種の事件が起きたとき、他人事とは思えないおそろしい気持ちになるのは、この2008年の事件がきっかけだった。この10年、と感じていた僕は少し控えめで、少なくとも14年前には、僕のオカルティックな妄想はすでに動き始めていた。その頃から「むしゃくしゃしていた」「殺すのは誰でもよかった」。そんな犯行後の発言をたびたび聞くようになった。(ような気がしている)

同日、五輪組織委員会理事だった高橋治之氏の自宅に、東京地検特捜部が家宅捜索に入った。僕の通勤途中にある豪邸の前には2週間ほど前から、いろいろな局のカメラクルーが朝から晩まで、まるで前もってこの日を知っていたかのように陣取っていた。これくらいの豪邸に住むには悪事をはたらく必要があるものなのだな、などと、僕はクルーの前を通りながら思ったものだった。そして同時に、悪いことと言えど、これほど騒ぐことなのだろうか、とも感じたのだった。

やはり同じ日。ある大臣の会見があったそうだ。これもまた僕の妄想だろうから詳しくは書かない。死刑囚の刑の執行も、元理事の家宅捜索も、それぞれの持ち場の人が与えられた仕事を決められた手続きに則って粛々とこなしただけなのだろう。まさか、忖度の亡霊があたりをさまよっているはずはないだろう。タイミングがよく見えるのは、単に僕がうがった見方をしているせいなのだろう。

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