オカルティックな妄想として

安倍元首相が殺害された。
直後の参議院選は自民党の勝利に終わり、自作の銃を放った犯人は明確な動機を語り、9月には国葬を執り行うことも決まった。それぞれをそれぞれに論ずる意見は、すでに下火に向かっていると感じるのは、政府のマスコミ対策が効いているからだろうか。それとも単に僕がうがった見方をしているせいだろうか。

事件を知り、またしても僕は他人事とは思えないおそろしい気持ちになった。事件から2週間以上が経ち、犯人も捕まった。動機だってはっきりと語られている。それでも僕の気分はまったく晴れない。その場で取り押さえられた年齢も近いその男が、そのまま僕自身だった可能性をどうやって打ち消すことができよう。

人は誰しも、自分の意志を超えるものを内に抱えて生きている。(と僕は思っている)
とりわけ邪悪なものに対して、人類は太古の昔から制度的、慣習的にいろいろな方法を編み出して、なんとかその得体の知れないものを飼い慣らそうと腐心していた。(と僕は思っている)

この10年、あるいはもっと前からだったのかも知れないし、もう少し最近のことだったかも知れない。世の中はずいぶんと不寛容になり、ますます不機嫌な人が増えた。不寛容や不機嫌が、制度や慣習を失いつつあるシグナルだ、というのはいくらなんでも飛躍しすぎだろうか。先達が、あの手この手で結界を張り、ぎりぎり抑え込んでいたなにかが、少しずつ滲み出していると感じるのは、単に僕のオカルティックな妄想だろうか。

この国では、罪を犯した本人に犯意があったかが問われることになっている。男には、十分な殺意があったのだろう。その殺意を育ててしまったのは男の不始末かも知れない。しかし、その殺意の芽を摘めなかった責任の一端は、この社会全体に薄く広がって存在している。そんな気がしている。

狂気が身近でありふれたものに戻ってしまうよりも前に、また社会全体で狂気を癒し、飼い慣らす方向に向かっていきたい。

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