恒例の特権的な行事について

この数年、年末(か)年始の恒例行事となった旧友との再会をなんとか今年も果たした。

なんとか果たしはしたものの、彼の国のパブで会うという約束は未だ果たされることなく、今年は新宿の大ガードの近くでお茶を濁すことになった。青白い蛍光灯で煌々と照らされた店内は夕方6時を過ぎた時点で一人の客もなく、この非常時でなければ選ばなかった店に違いない。とは言え、7時過ぎからぼつぼつと数組のカップルが入り、9時の閉店のときにはそこそこの活気を呈していた。

恒例行事は、お決まりの近況報告にはじまり、酒が進むにしたがって断片的な思い出や将来の見通し、あるいはところどころに家族の挿話などをはさみながら、僕らはその3時間、ほとんど歪んだ時空にいたと言ってもいい。今後、さらに「加齢」という要素が加わることになれば、僕らの時空はより一層混迷を深めるに違いない。

古くからの友人が今も、これからも友人であるかどうかは、ひとえに過去の話だけではなく現在(いま)の話や未来の話をできるかどうかにかかっていると思う。さらに言えば、ただ一緒に過ごしただけの時間と交わしたしょうもない話の上に、僕らの友情は成り立っているとさえ思う。

実際、それぞれがそれぞれの人生に忙しい大人となり、日頃、無目的や無駄を排しているとするならば、しょうもない話を上塗りしていくこの恒例行事は、とてもぜいたくな、特権的なことのように僕には感じられる。

I君、N君。今年もありがとう。G君、次の機会に。
また、しょうもない話を交わしましょう。

(備忘のため、今年の恒例行事についてここにしたためることにする)

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